もじゃもじゃペーターのところでも書いたように、日本語の変化にはめまぐるしいものがあると思っています。話し言葉はもちろんのこと、二葉亭四迷が言文一致を試行錯誤で始めた頃より、話し言葉の変化に応じて書き言葉も相当な勢いで変化しているのを感じます。
近くにある郷土資料館には、戦時中の子ども達が疎開先から自宅に向けて書いた手紙が展示されているのですが、その文章のしっかりしていることには本当に驚かされます。
もちろん、それはしっかりとした文章だから展示されていて、多くのこども達があのような文章を書けたわけではなかったのかもしれません。
でも、戦時中まで遡らなくとも、今から30年ほど前、私が小学生だった頃の文集を開けば、現在のこども達とはくらべ物にならない文章力をどの子ももっていたことがわかります。とはいえ、その30年前に小学生だった私の文章だって、私の親世代が見たらずいぶんとくだけていて、目をむくようなものなのです。
娘が小学校に入り、我が子を含めた子ども達の作文を読んで驚いたのはもう何年も前のこと。そして、娘が中学に通うようになり、子どもたちの作文を読んで改めて驚かされています。中学生になったら少しはきちんとした文章を書けるようになるのではないかと思ったものの、結局はそういう問題ではなかったようです。
「そういうこと」は、「そおゆうこと」や「そーゆーこと」に、「やはり」は「やっぱり」から「やっぱ」に、「ではない」は「じゃない」になっていることが多く、顔文字やハートマーク、☆マークも普通に使われている。そして、何よりも驚いたのは、その作文がそのままの姿で学校のお便りに印刷され、配られていることでした。そういった書き方は、普段遣いだけではなく、教室でもすでに堂々と市民権を得ているのですね。
全国の他の学校がどうなのかは知らないけれど、少なくとも娘の通う学校では、生徒の書きたいと思う意欲を大切にし、その書き方にまでは言及できないでいるようです。文章力よりは、思いの丈をそのままぶつけ、楽しく書くことの方を大切にしている。作文に赤を入れられないで、誰もが楽しく好き勝手に書ける作文、それはそれでとても意味のあることだと思う。ストレス発散にはきっといい。カウンセリングにもなる。でも、これでは豊かな言葉の文化は継承されていかないのではないかと、ふと不安がよぎる。
今、たくさんのこども達が親しんでいる文章とは、どのようなものなのだろう。そういった文章を、私も楽しむことができるだろうか。
息子が楽しそうに読んでいる本を読んでみた。その本からの抜粋。
○○の身体が総毛立った。
と思ったら……。○○が出てきそうなかんじがしなくもない(ビミョ〜)
○○の内外には、かがり火がたかれてて、あちこちに○○がウロウロ。臨戦態勢ってかんじ。木の塀の手前にはふかそうな濠が二重に掘られてる。
「だな」
「うがっ!」
○○の、くぐもった悲鳴が聞こえた。
ズサッ!
○○がくずれる音。
「だ、だれだ!」
「わ、わたしも!」
○○の声。
「うぐ!」
ズサッ!
まるで絵のない劇画を読んでいるようだ。そして、いらいらと落ち着かないままに読み終え、疲れだけが残った。
なぜだろう。「ている。」を「てる。」と書くのは、息子の小学校の担任も同様だ。だからこの際、そういうものなのだと目をつぶろう。「そうかと思ったら、違った。」を、前後を省いて「と思ったら……。」だけですませるのも、私がインターネットで使う文章ではありがちだから、読み過ごそう。()の中に感想を入れるやり方も、(?)(!)(泣)(笑)など、大学教授でさえ使っているのを見たことがあるからまぁ許そう。
そういった文章のこだわりにはすべて目をつぶって、でもこの本を読みながら、私には豊かな情景を思い浮かべることができなかった。読み手を飽きさせないようにといった配慮からか、物語のテンポはよい。それなのに、軽快であるはずのストーリーを追うことは難しい。私には想像力が足りないのだろうか。この本で必要とされる想像力は描写を読むことによって登場人物の立場やその思いをイメージする想像力とは違い、直接的な視覚的状況を想像するにとどまる。そして、そういった視覚的状況には興味がわかないにもかかわらず、それを想像しないとストーリーすら理解できないために、無理して想像し、そして疲れる。たとえテンポがよかったとしても、意味を見いだせないストーリーを追うことは苦痛だ。
それに、短いセリフや擬音語の連続で本の下半分が真っ白なのはもったいない。せめて空白にするならば、詩集のように、その空白いっぱいに、溢れんばかりの思いを響かせて欲しい。
それが親世代の私が読んだ、現代の子に親しまれている本への感想。
ところで、当のご本人、小6の息子はこの本をどのように楽しんでいるのだろう。観察していると、普通からはずれたおかしな言葉の感触を楽しんでいる部分が大きいのではないかと思う。
登場人物のセリフを繰り返し言っては声をたてて笑っている。
「わらわを女王さまとお呼びっ!」
「あ、ほっれ、あ、ほっれ、ほれ、ほれ、ほれ、」
「……うぉおおおおおおー!」
「うぬううううう……おりゃああああああああああああ……うけけけけけけけけー!」
物語の内容ではなく、短い文のもつちょっとした可笑しさ、そして言葉の感触を楽しむ。
これは、娘が言葉を覚え始めた頃に、意味をもたない言葉を転がして遊んでいたのと同じだろうか。
娘は1歳の頃「ぴっちゃぼー」など、自分でつくった音の組み合わせを声に出して言うのが好きだった。たまたま口をついて出た言葉の響きが不思議で、楽しくて、わくわくするものだったのだろう。まるで、声にでる音を美味しそうに食べているかのように、大切に大切に発音していた。それはきっと娘にとって、言葉と友達になるための一つの段階として、とても意味のあることだったろうと思う。
あぁ、もしもそれと同じで、とても意味のあることだったとしても、小6の息子に「あ、ほっれ、あ、ほっれ、ほれ、ほれ、ほれ、」と始終騒がれるのでは、ほとほとたまらない。
言葉重視の教育、ぜひ始めましょう!
自分もnet上では話し言葉で書いてしまいます。でもそれは意としての事なのよと、しっかり教えたいですね。
学校からの配布物になって来たら、たぶん赤ペン添削して先生に返信するような気がします。
使い分けをする事も大事ですよね。
正しい言葉の存在だけでも認識して欲しいと思うようになったのは歳をとったからでしょうか?ひとまわり違いの友達の言葉を直していたらキリがない事に気づき、悲しく思う今日この頃です。
そうなのよ。
先日は、学生さんと話していてやたらと「〜の方」と言うので、つい「○○の方って、どっちの方?」なんて突っ込みを入れて、場を白けさせてしまいました。
変な使い方をしているのは、聞くだけでストレスです。困った。
最近、これはやだな〜と思っているのは
インフルエンザを「インフル」と略して言うこと。
「2組の○○ちゃん、インフルだってよ。」などと、大人も使う昨今、そのうち、インフルエンザとフルに言う私は古物扱いされてしまうんだろうなぁ。
やっぱり、歳なんですかね。
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自分もnet上では話し言葉で書いてしまいます。でもそれは意としての事なのよと、しっかり教えたいですね。
学校からの配布物になって来たら、たぶん赤ペン添削して先生に返信するような気がします。
使い分けをする事も大事ですよね。
正しい言葉の存在だけでも認識して欲しいと思うようになったのは歳をとったからでしょうか?ひとまわり違いの友達の言葉を直していたらキリがない事に気づき、悲しく思う今日この頃です。
そうなのよ。
先日は、学生さんと話していてやたらと「〜の方」と言うので、つい「○○の方って、どっちの方?」なんて突っ込みを入れて、場を白けさせてしまいました。
変な使い方をしているのは、聞くだけでストレスです。困った。
最近、これはやだな〜と思っているのは
インフルエンザを「インフル」と略して言うこと。
「2組の○○ちゃん、インフルだってよ。」などと、大人も使う昨今、そのうち、インフルエンザとフルに言う私は古物扱いされてしまうんだろうなぁ。
やっぱり、歳なんですかね。