毎年誕生日には、本をプレゼントしています。
去年は、その頃息子がはまっていた”さくらももこ”の本でした。
今年は、Kさんに送っていただいたビジュアル系インディーズ情報ミニコミ誌です。
なんでそんな本を...って感じではありますが
私としてはかなりまじめにbest!と思っています。
▼... Read more ≫
14歳の男の子にあげる本で、きっと司書の人が勧めるいい本はたくさんある。
でも、大好きなバンドがあって、そのメンバーたちに興味を持っているなら
その人たちに大いに刺激を受けて欲しいと思う。
学校以外の世界を知って欲しい。あこがれの人を持って欲しい。
切にそう思う。
どんな世界であっても、がんばっている人がいて
がんばっている人たちがかっこいいと、そう思って欲しいと思う。
しかし、読んでみたらやっぱりいいなぁ。いいバンドだったなぁ。
彼ら、ホントに良いヤツ!たちだよなぁ。
息子が大ファンの”ベース兼メインの作曲者”さん、ミニコミ誌の中でいいことたくさん言ってくれてホントにありがとう!
あなたの存在は、息子にとって本当にいい刺激になっています。
解散してしまったのは、本当に残念。
...?
ハイ。正直に言います。
この選書(?)は50パーセントは...いえ
70パーセントぐらいは...いやいや、
ほとんど私の趣味です。私が読みたかったのデス♪
Kさん、本当にありがとうございました!!!!
14年前のあの日を思い出す。
彼の生まれた日、あの家で、フワフワとやわらかく温かな彼を、自らの手でこの明るい世界に引き上げ、自らの腹に乗せたあの瞬間のこと。
私の背にいた、今はここにいないあの人のこと。
私の膝に暖かい小さな手をのせてのぞき込んでいた娘のこと。
「あぁ、私の幸せの種だ」と感じた。
温かだった。彼のいつまでも続く大きな産声に、「大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫だよ。」と呼びかけていた私。
▼... Read more ≫
ね、大丈夫だったでしょ?
悔しいこと、哀しいこと、憤ること、
楽しいこと、嬉しいこと、可笑しいこと、
もっともっと、たくさん経験していいんだよ。
怖がらないで。
大丈夫だから、きっと大丈夫だから。
11月に娘の首のリンパが大きく腫れて、抗生剤でまったく治る気配はなく、
医者から大きな病院に行くように言われ、病院で検査を続けている。
今日は、CTの結果を聞きに行った。
▼... Read more ≫
映像には、大きな大きな丸いものがひとつ見える。
「輪郭がある程度はっきりしているので悪いものである可能性は低いと思う。
ただ、何かがあるのは確かであり、それが何かを調べるために細胞診をする。細胞診によって、悪いものがあるか、薬によって治せるものなのか、切開して取り出さなくてはいけないものなのか、そういったことがわかるかもしれない」とのこと。
その場で注射針を刺し、細胞診を行った。
「あぁ、血液だ。血液が入っていた。。。」と、医師。
「ほんの少しだけ、腫れがひいたでしょう。血液が入っていましたね。これは何かできものができていて、そこから出血しているのではないかと思われます。」
このあたりで娘は貧血おこして失神。白目むいて、気を失った。。。唇が真っ白。椅子を寝かせて、看護婦さん呼んで、血圧計って。。。。としばし混乱。
でも、失神する人は男性でよくあることらしい。「緊張していたんだねぇ」と医師。医師も看護婦も動じない。すごいなぁ。。。
私は、娘の目が裏返っているのを見て、本当にビックリした。おでこに手をあてて、名前を呼んでも、まったく反応しないのだもの。
後で娘に聞いたら、ホントに意識がなくなってしまったらしい。「貧血ってあんな風になるんだ。怖いね〜」と目に涙浮かべて笑ってた。私も一緒にカタカタ震えながら笑い泣き。ホントに怖かったよ、白目の娘。。。。
…あぁ、一緒に笑えて幸せ。ホント、幸せ。
「血液の病気ではなさそうな感じです。」
(ここでホッとして力を抜いたら、医師に間髪挟まず釘をさされました)
「でも、何かの病気があることは間違いない。」
細胞診の結果は年内ギリギリの27日。
娘は28日まで学校の合宿があるため、親だけが先に結果を聞きに来てもいいでしょうか? と聞いたところ
「一刻を争うことはなさそうな感じなので、先に結果だけ聞いていただいて、後から治療を開始するのでも構わないと思う」
とのこと。少しでも安心(?)して新しい年を迎えたいので、年内27日に予約を入れてきました。
まだまだ断定的な言い方はNoもYesもされておらず
原因も結果もまったくわからないけれど、血液の病気の可能性が低くなり、心の負担は減りました。
血液の病気だと、「体全体」の病気という感じがするけれど
部分的な病気ならば、なんとかなるかな。。。と。
思い切り素人判断ですが。。。
でも、きっと悪いやつではない、きっと大丈夫だと思っています。
そうそう、今日、久しぶりに一緒にお出かけしたので娘にコンタクトレンズを勧めてみました。本当は、ずっとずっと欲しかったんだよね。知ってたよ。経済的なことを考えてしまい、遠慮してなかなか言い出せないでいるのがわかっていたから。。。
病院からの帰りに眼科へ寄り、コンタクトレンズを調達。
娘もとうとうメガネを卒業です。
とってもかわいい。
しかし、、、良くも悪くも悪いヤツ!にふりまわされている今日この頃。ふぅ〜。
悪いヤツ!は、実は良いヤツ!だった。。。と良い方も悪い方もどちらもそう言いたいデス。はぁ〜。
悪いヤツ!じゃなくて良いヤツ!だったなら、元気になったら、きっときっと一緒にライブ行こうね。解散までに間に合いますように。。。どうかどうか。
あぁ、解散、早すぎる。
娘の高校の文化祭に行ってきました=母校の文化祭に行ってきました。
なんて幸せなんでしょう。大好きな母校で、娘が楽しんでいる様子が見られるなんて。。。
▼... Read more ≫
さらに、今回は部活で一学年下だったしのぶ&はるよ夫妻&二世プリンスコタロくんともご対面!
夫婦で母校を楽しめるって素敵だなぁ。。。。
すっかり忘れていた高校生時代のあんなこと、こんなことを語り合いながら校舎を歩き、現役高校生のパワフルな出し物に圧倒され、すっかりあの頃にタイムスリップして、ホントに楽しかったです。
懐かしいねぇ。校舎はまったく違うけれど、高校の雰囲気、変わっていないねぇ。。。
と懐かしさでいっぱいの中で、来年からは中高一貫校になるとのことで不安がいっぱい。
小学生を連れた知らない方に「この高校に在学するお子さんがいる方ですか?」と話しかけられて、色々と高校のことを質問されたのだけれど、だんだんゾーッとしてきて無口になってしまった。答えられる質問がないのだもの。実際には「どうでしょうねぇ。わからないけれど。。。どうなんでしょうねぇ。」ぐらいしか答えられなかったけれど、ホントだったらはっきり言ってしまいたかった。この高校の雰囲気を自分でしっかりと味わって、自らが求めている学校ではないと認識し、受験は断念してくださいな。
「どんな感じの校風ですか? 」
見ての通りだと思うんですけれど。。。聞くよりも、実際に見てくださいな!
「やっぱりここは、積極的で元気なお子さんばかりなのでしょうか?」
それは、積極的な子もいれば、そうでない子もいるだろうし、いろんな子がいるのが当然でしょう。
「校則はどんなものがあるんですか?」
どうでしょうね。あるんでしょうか。私は知りません。少なくとも私が在校中には校則らしい校則がなかったように思います。高校になってまで、親が高校の校則を知っていなくてはいけないのでしょうか。それに、高校生になってまで、わざわざ先生に規則をつくってもらいたくはないですよね。
「先生方は進路指導や勉強に熱心な感じでしょうか」
今は知りませんけれど、私がいた頃にはまったく熱心ではありませんでした。
というか、進路指導など一切なかったと思う。
「部活で強いのはどこなんですか? 全国大会で優勝しているところとか、ありますか?」
知りません。。。でも、水泳部のウォーターボーイズ&ガールズは面白いから一見の価値ありますよ。
「いえね、やっぱり公立で安くていいところがあれば、そういうところに入れたいのが親心じゃないですか。ねぇ。」
。。。。
入れたい? そうだね。小学生の子どもたちは、まだ自分の意志によって「この学校に行きたい」と思うことができないと思うよ。親の希望で受験し、親の希望で入ってくる。
ちょっとどうかなぁ、、と思う。
高校入試で入ってくる子たちは、ほぼ100パーセント近くが子ども自身の希望で入ってくる。入ってきている。そしてこの高校の校風がある。
来春から中高一貫校になってこの高校に入ってくる中学生一年生たちは、親の希望により受験させられて、入ってくる。
あぁ、、、不安。
中一の息子が朝食のヨーグルトに入れる柿をむいていた。
剥いた柿が何やら変な形なのでよくよく見ると、柿を八等分したのちに
▼... Read more ≫
りんごの芯を取るように、大きな種のまわりを三角形に取り除いているのだった。
おまけに種のないかけらまでも丁寧に切り取ってある。
唖然。
柿に芯があるだなんて、考えたこともなかった!
私が「柿は種のまわりまで食べられるよ」と言うと
「へぇ、そうなんだ」とまるで知らなかったかのような返事にまたびっくり。
柿は秋の一時期に数回しか食べないからかなぁ...。買う柿は、種なし柿がほとんどだからかなぁ。
去年、一昨年と、家で干し柿だってつくっているのになぁ...。
私が朝の洗顔をしている間に、自らみんなの朝食の準備を進めてくれる息子ですから決してお手伝いをしない子というわけではないと思う。それでもこの有様。
中学一年生では、まだまだ生活体験の積み重ねが少ないのだと実感した次第です。
さらに大人も子どもも生活体験の乏しい昨今、こども達が魚の切り身が泳いでいる思っているだとか、鶏に足を四本描くとか、決して私には笑えません。だって、自分で体験してきていなければ、わからないのが当然です。大きな魚をさばいたことがなければ、どうしてあの形の切り身になるのかはわからなくてもおかしくない。私だって、豚の三枚肉がどの部分をどうやって切り取った物なのかを知らないけれど、たぶん多くの人が知らない。それでも誰も笑わないもの。
スーパーに行けば、調理しやすいように下ごしらえされた魚や野菜、肉がたくさん並んでいます。それでも足りずに、すでに調理されたものもたくさん並んでいます。「これは、便利!」と飛びつきたくなるけれど、一方で何か後ろめたいような、薄ら寒い思いが走る。
だって「便利」には必ず「代償」があるのです。その「代償」は、きっと大きいのです。「便利」を手に入れることは簡単なのに、そこで払った「代償」を取り戻すことは並大抵の努力ではできないと思います。私にはその努力ができるとは思えないから、せめて簡単に手に入れられる「便利」を極力避けるという努力だけは、続けようと思っています。
娘が、
村上春樹
の本を読み終えた。
先日、崩落寸前の本棚を修理したときに、今まで影に隠れていた本たちが前面に現れた。その中に、村上春樹の「
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
上・下」があった。中二の娘は「家にこんな本があったんだ、知らなかった。」と手に取り読み始め、とうとう今日読み終えた。
あぁ、娘が村上春樹の本を読むなんて、娘があの村上ワールドをたった一人きりで冒険するなんて、そんな日がいつか来るなんて思いもしなかった。
そんな日は、突然来るんだね。
子育ては、終わったのだなぁ...
折しも 一人の女性 になった日に
本当に、本当に、おめでとう。
▼... Read more ≫
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をめぐり、面白い偶然がありました。
「あれ? このクリップいつからついているんだろう? クリップなんて、使うことないのになぁ...」
娘が通学カバンから取り出した「上巻」のカバーに、銀のクリップがはまっていました。
そこで私がふと思い出した。「もしかして、それってクリップが出てくるお話じゃなかった?」
娘「え? そうなの? まだ出てこないよ」
数日後、下巻を読み始めた娘がまた言いました。
「あれ? あのクリップがいつのまにか下巻に移ってる。一緒にいれていたから、カバンの中で上巻から移動しちゃったのかな。」
今日、読み終えて
「あ! そういえばあのクリップがなくなってる。」
ちょっとした偶然。楽しい偶然。
村上ワールド初心者への、嬉しい贈り物でした。
それにしてもクリップというものは、使いたいときになくて
必要ないときに目についたりしませんか?
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 / 村上 春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 / 村上 春樹
数年前、娘が小学校六年生だった頃に、ちゃんとした文章を書くコツを教えてくれました。
ちゃんとした文章を書くときのコツはね、小さい字を使わないようにすることだよ。
たとえば、「○○しちゃった。」は「○○してしまいました。」にすると、ちゃんとした文章になるでしょう? 「やっぱりそうだった。」とかも、小さい字を使わないと「やはりそうでした。」になるでしょう?
2歳年下の息子は、当時それを聞いて、「本当だ!」と目を輝かせ、色々口ずさんでいましたが、残念ながら実践には至らず、未だに小さい字を多用し、話し言葉そのままの文章を書いています。
きちんとした文章を書くことは学校でも求められないので、自覚がなければどうしたって書けるようにはなりません。
昔の習い事といえば、とにかく読み書き算盤でした。
現在はそれ以外にも多種多様な習い事があるから、その分、読み書きの勉強はおろそかになってしまったのかもしれませんね。
もじゃもじゃペーターのところでも書いたように、日本語の変化にはめまぐるしいものがあると思っています。話し言葉はもちろんのこと、二葉亭四迷が言文一致を試行錯誤で始めた頃より、話し言葉の変化に応じて書き言葉も相当な勢いで変化しているのを感じます。
近くにある郷土資料館には、戦時中の子ども達が疎開先から自宅に向けて書いた手紙が展示されているのですが、その文章のしっかりしていることには本当に驚かされます。
▼... Read more ≫
もちろん、それはしっかりとした文章だから展示されていて、多くのこども達があのような文章を書けたわけではなかったのかもしれません。
でも、戦時中まで遡らなくとも、今から30年ほど前、私が小学生だった頃の文集を開けば、現在のこども達とはくらべ物にならない文章力をどの子ももっていたことがわかります。とはいえ、その30年前に小学生だった私の文章だって、私の親世代が見たらずいぶんとくだけていて、目をむくようなものなのです。
娘が小学校に入り、我が子を含めた子ども達の作文を読んで驚いたのはもう何年も前のこと。そして、娘が中学に通うようになり、子どもたちの作文を読んで改めて驚かされています。中学生になったら少しはきちんとした文章を書けるようになるのではないかと思ったものの、結局はそういう問題ではなかったようです。
「そういうこと」は、「そおゆうこと」や「そーゆーこと」に、「やはり」は「やっぱり」から「やっぱ」に、「ではない」は「じゃない」になっていることが多く、顔文字やハートマーク、☆マークも普通に使われている。そして、何よりも驚いたのは、その作文がそのままの姿で学校のお便りに印刷され、配られていることでした。そういった書き方は、普段遣いだけではなく、教室でもすでに堂々と市民権を得ているのですね。
全国の他の学校がどうなのかは知らないけれど、少なくとも娘の通う学校では、生徒の書きたいと思う意欲を大切にし、その書き方にまでは言及できないでいるようです。文章力よりは、思いの丈をそのままぶつけ、楽しく書くことの方を大切にしている。作文に赤を入れられないで、誰もが楽しく好き勝手に書ける作文、それはそれでとても意味のあることだと思う。ストレス発散にはきっといい。カウンセリングにもなる。でも、これでは豊かな言葉の文化は継承されていかないのではないかと、ふと不安がよぎる。
今、たくさんのこども達が親しんでいる文章とは、どのようなものなのだろう。そういった文章を、私も楽しむことができるだろうか。
息子が楽しそうに読んでいる本を読んでみた。その本からの抜粋。
○○の身体が総毛立った。
と思ったら……。
○○が出てきそうなかんじがしなくもない(ビミョ〜)
○○の内外には、かがり火がたかれてて、あちこちに○○がウロウロ。臨戦態勢ってかんじ。木の塀の手前にはふかそうな濠が二重に掘られてる。
「だな」
「うがっ!」
○○の、くぐもった悲鳴が聞こえた。
ズサッ!
○○がくずれる音。
「だ、だれだ!」
「わ、わたしも!」
○○の声。
「うぐ!」
ズサッ!
まるで絵のない劇画を読んでいるようだ。そして、いらいらと落ち着かないままに読み終え、疲れだけが残った。
なぜだろう。「ている。」を「てる。」と書くのは、息子の小学校の担任も同様だ。だからこの際、そういうものなのだと目をつぶろう。「そうかと思ったら、違った。」を、前後を省いて「と思ったら……。」だけですませるのも、私がインターネットで使う文章ではありがちだから、読み過ごそう。()の中に感想を入れるやり方も、(?)(!)(泣)(笑)など、大学教授でさえ使っているのを見たことがあるからまぁ許そう。
そういった文章のこだわりにはすべて目をつぶって、でもこの本を読みながら、私には豊かな情景を思い浮かべることができなかった。読み手を飽きさせないようにといった配慮からか、物語のテンポはよい。それなのに、軽快であるはずのストーリーを追うことは難しい。私には想像力が足りないのだろうか。この本で必要とされる想像力は描写を読むことによって登場人物の立場やその思いをイメージする想像力とは違い、直接的な視覚的状況を想像するにとどまる。そして、そういった視覚的状況には興味がわかないにもかかわらず、それを想像しないとストーリーすら理解できないために、無理して想像し、そして疲れる。たとえテンポがよかったとしても、意味を見いだせないストーリーを追うことは苦痛だ。
それに、短いセリフや擬音語の連続で本の下半分が真っ白なのはもったいない。せめて空白にするならば、詩集のように、その空白いっぱいに、溢れんばかりの思いを響かせて欲しい。
それが親世代の私が読んだ、現代の子に親しまれている本への感想。
ところで、当のご本人、小6の息子はこの本をどのように楽しんでいるのだろう。観察していると、普通からはずれたおかしな言葉の感触を楽しんでいる部分が大きいのではないかと思う。
登場人物のセリフを繰り返し言っては声をたてて笑っている。
「わらわを女王さまとお呼びっ!」
「あ、ほっれ、あ、ほっれ、ほれ、ほれ、ほれ、」
「……うぉおおおおおおー!」
「うぬううううう……おりゃああああああああああああ……うけけけけけけけけー!」
物語の内容ではなく、短い文のもつちょっとした可笑しさ、そして言葉の感触を楽しむ。
これは、娘が言葉を覚え始めた頃に、意味をもたない言葉を転がして遊んでいたのと同じだろうか。
娘は1歳の頃「ぴっちゃぼー」など、自分でつくった音の組み合わせを声に出して言うのが好きだった。たまたま口をついて出た言葉の響きが不思議で、楽しくて、わくわくするものだったのだろう。まるで、声にでる音を美味しそうに食べているかのように、大切に大切に発音していた。それはきっと娘にとって、言葉と友達になるための一つの段階として、とても意味のあることだったろうと思う。
あぁ、もしもそれと同じで、とても意味のあることだったとしても、小6の息子に「あ、ほっれ、あ、ほっれ、ほれ、ほれ、ほれ、」と始終騒がれるのでは、ほとほとたまらない。
言葉重視の教育、ぜひ始めましょう!
こころない犯罪が増えている。
犯罪は、どの時代にもあっただろうけれど、
今以上に犯罪の多い時代もあっただろうけれど
貧しさ故でもなく、怨恨故でもなく、怒り故でもなく、
こころないゲーム感覚の犯罪が、今、増えている。
どうして増えているのだろう。どうしたら減るのだろう。
子を持つ母として、そのような犯罪を生む時代に生きる責任ある社会人として、
考える。
▼... Read more ≫
我が子はまっすぐに育っているだろうか。
息子のことで小学校の先生に呼び出されたことは数知れず、
クラスの子どもの親からお叱りをうけたこともあるし、
息子とともに菓子折を持って友達の家に謝りに行ったこともある。
そんなことがあるたびに、息子と真剣に向きあう機会を与えてもらえたことに感謝して
息子と、徹底的に向きあう。
難しいなぁと思う。
息子が犯罪を起こさないためには、親としてどう接したらよいのか。
毎日が試行錯誤だ。
本を読む子は、感性豊かに育つと言う。
その言葉を信じたい。
息子は、幼い頃から素晴らしいたくさんの本に囲まれて育ってきた。
今も素晴らしいたくさんの本を読んでいる。
人間の作った法は、犯すことがあるかもしれない。
ただ、こころなき犯罪だけは起こさないで欲しいと、願っている。
息子だけでなく、世界中のたくさんのこども達に、
こころを活発に動かす体験をさせてあげたい。
一緒に泣いたり、一緒に笑ったり、一緒に怒ったり、一緒に痛い思いをしたり、
一緒に怖い思いをしたり、喧嘩したり、仲直りしたり、
たくさんのこども達のこころがやわらかに動かせる環境を与えてあげたい。
たくさんの素晴らしい本との出会いを与えてあげたい。
爆撃の中に生きるこども達、笑顔を失ったこども達、おもちゃを手にすることのない
友達もいない、家の外に出ることもかなわないこども達に
絵本をあげたい。
政治的なものではなく、教育的なものではなく、
その地に、その民俗に、古くから伝わる物語を、こころの動く物語を、
その人の文化を、その人の誇りとなり、生きる喜びをあたえてくれる物語を、
政治的な活動とは無縁に、手渡してあげたい。
「こころ」は、動かさないでいると、凍り付いてしまうから。
児童館でドッジボール大会があったそうです。
数年前にも同じ大会に参加したことのある小六の息子が、口をとがらせて帰ってきました。
今年から「思い切り投げてはいけない」というルールができたという。
児童館側の言う理由は「危ない」から。
よくよく聞くと、今年からはチームエントリーではなく
個人エントリーしか受け付けず、チーム分けは児童館側が行い、
そのチームメンバーは、小学校1年生から中学生までの混合だったそうです。
確かに、中学生のボールを小学一年生がまともに受けるのではたまらないし、そういったエントリー方法や、そういったルールを設けなければならないような、外部の人間には計り知れない事情もあったのでしょう。
ただ、どんな事情があったとしても、それだけの年齢差がある子ども達が一緒にドッジボールをするとしたら真剣勝負はできないし、この時点でもうドッジボール大会は勝負としては成立していない。強いボールを投げられる大きな子が、小さい子に対して手加減するのは当然だろうし、その中で「思い切り投げない」ことをわざわざ「ルール」として提示しなければならなかったというのは、一体どういう状況なのかしら...と心配になりました。
実際のゲームでは、年下の子達が大きな子にむかって、どう見ても力を加減して投げているにもかかわらず「今のは本気で投げたから反則!」などと食ってかかっていたそうです。きっと、そうやって食ってかかる子達は、真剣勝負しているからこそ食ってかかるのだろうし、きっと本気で投げてしまっていることでしょう。それは、いいこと? いけないこと?
どちらにせよ、何が良くて何がいけないのか、こども達を混乱させる変なルールだと思います。
さてと、ここで思い起こします。小学生の頃、私はドッジボールが大嫌いでした。
強い男の子がボールを投げるその迫力に満ちた形相を思い出すだけで、今でも身震いするほどですし、恐怖に顔をひきつらせて逃げ回り、当てられた痛さと悔しさに涙があふれ、その涙を隠して外野に走る幼い日の自分の姿までもがよみがえってくるようです。いやだいやだ。
あの頃にも「ボールを思い切り投げてはいけない」というルールさえあればなぁ...。
...?